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復興の終わりとは~令和6年能登半島地震~

補償Gメンの記録簿
【はじめに】
先日、石川県の発表では『被災家屋の公費解体は約98%が完了した』とありました。
公費解体。私たちはこの何%かに関わりました。
数字を見ると、あの地震から丸二年がかかった事業でした。
『進んだな』と思います。関われてよかったと胸を張って言えます。
私たちは一ヶ月に一回のペースで輪島市を訪れていました。
町の雰囲気も、そこに住む方の暮らしも段々と分かってくるもので、
『あ、そこも解体したんだな』と気付くようになり、
まるでそこに住んでいたかのように、景色が変わる寂しさを感じるようになりました。
私は感情移入しやすい性格でして、
町の状態を見て、
地元の方や関係者からお話を伺う中で、
事業自体が被害に対して、十分な内容なのかと疑問を持つことがものすごくありました。
しかし決められた範囲で対応するのが私たちの仕事であり、
それがもどかしく、技術者として未熟な点でした。
公費解体に携わらせてもらう中で、
『復興の終わりとはいつ来るのか』と考えるようになりました。
私なりに考えたこと、能登半島で学ばせてもらったことを残してみたいと思います。
【公費解体業務について】
令和6年の春、依然として被災地の深刻な状況が伝わってくる中、復興支援協会(一社 日本補償コンサルタント復興支援協会)より石川県の復興支援業務の打診があり、私たちは公費解体業務に関わることになりました。
公費解体とは被災した家屋のうち、半壊以上の損壊判定を受けた家屋に対して国、自治体が解体費を負担し、生活再建につなげる事業です。
その中で私たちは、建物の面積調査、解体費の算定、三者による立会い業務※、報告書の作成などを行う業務にあたりました。
※三者立会とは、①申請者(解体する家屋の所有者)、②解体業者、③算定業者(私たち補償コンサル)が実際の対象物件を見て確認し、合意を得る重要な業務です。
業務の流れとしては先ず、輪島市と復興支援協会石川県部会の会社が主導し、私たち愛知県部会員の各会社に担当物件の指示が来ます。
そこから担当物件の解体申請者に連絡を取り、三者立会の調整を行います。
立会スケジュールを組んだ上で輪島市に向かい、滞在する一週間で25件ほどの立会を行い、帰社後に算定書・報告書をまとめて作成します。
ここまでが私たちの担当する業務範囲となりました。
【能登半島 輪島市へ】
2024年4月7日。
現地の状況確認、また公費解体の詳しい業務説明を受けるため
私たちは初めて石川県に派遣されました。
メンバーは当社の空間計測部補償グループを中心に構成されました。
愛知県から石川県まで、車での移動。
東海北陸道を通り富山県を経由するルートです。
当時は直接向かうと、5時間以上の時間がかかったと思います。
私たちは富山県高岡市に入ったところで一泊し、
翌日、業務打合せのため石川県に入るスケジュールとしました。
石川県に入る日の朝。
目的地は輪島市役所。
七尾市内の主要道路を走っていると見えたのは
ゆがんだ白線、崩落した側道と宙に浮くガードレールでした。

徐行でも車内に振動が伝わるほどの段差やクラック。
やがて主要道路は通行止めとなり、
その側道から生活道路、山道を進み、輪島市役所付近に到着しました。
街中で見たのは、数えきれないほどの倒壊した家屋。
電柱は傾き、マンホールは隆起し、それを避けながら車は走りました。
市役所周辺には学校や道の駅などがあり、いずれの場所にも仮設トイレ、仮設入浴施設が並び、特に水道の状態が深刻であることが分かりました。
火事があった輪島朝市では密集した家屋の延焼が止まらなかったことで、焼け焦げた異様な光景が広がっていました。

能登半島での建物被害の大きさについて、輪島市は1981年以前に建てられた旧耐震基準の建物が全体の約50%近くを占めており、新耐震基準の建物に比べてその被害が顕著であったため、倒壊等の被害割合が大きかったと分析されています(新耐震基準の耐震化率は全国平均約87%)。
私たちはとにかく現地で物資を調達することがないよう準備をして輪島市を訪れましたが、当初の情報は錯綜しており、現地の状況は事前に聞いていたものよりひどく壮絶に思えました。
自衛隊や警察などの行政職員の方々も全国から派遣されてきており、道路の復旧と同時に主要道路では検問が行われ、人の悪意も隣り合わせにある状況なのだと知りました。
【危険と隣り合わせの業務】
公費解体では実際に解体を申請された建物の所在地で、申請者、解体業者、そして私たち補償コンサルの三者で立会いを行います。
その中で対象家屋の面積調査が必須であり、それがもっとも被災建物に近づくタイミングでした。
私たちは木造建物であればある程度は目測ができるのですが、変形や、傾斜によってそれが難しい建物が多くあり、テープを伸ばしたりレーザー距離計を使用したりすることで、できる限り正確な数値を記録するよう努めました。
私たちが重要視していたのは解体費算定の正確さを保ちながら、
作業員と立会者の安全を確保することです。
慣れた頃に事故を起こすというのはよく聞く話で、幸い私たちは事故ゼロで業務を終えられましたが、最後までこの調査で緊張感が無くなることはなく、少しずつ心が疲弊する感覚を覚えていました。
この立会い業務では、住民の皆さんから生の声を聞き、良い面でも悪い面でも様々な話を聞くことができました。
家を飛び出した瞬間に目の前で倒壊してしまった方も
不満や怒りの声を口にされた方も
ずっとこの家に住めないか悩み続けた方も
様々な思いを抱えた、たくさんの方がいらっしゃいました。
『地震の後、石川からみんないなくなった』
そう聞くことが何度もありましたが、明るく近況を話してくれる方が本当に多く、支援に来ているはずの自分がパワーをもらえていました。

【復興の終わりとは】
能登半島では公費解体がひと段落した後も、人口減少や、高齢化など、
まだまだ問題が残っているそうです。
今後、土地区画整理事業や公営住宅の整備が進められていく見通しですが、
そこに人が住めば、『復興した』となるのでしょうか。
あの能登半島地震は『想定外の災害』だったのか。
災害に耐えるインフラ整備、高齢化社会の災害対応、旧耐震基準の建物という日本全体の課題が、あの日に突き付けられたように思えました。
私たちも常に災害と隣り合わせであり、いずれ発生すると予測されている南海トラフ地震に対して、耐えられる国土であるのか。
もちろんそれは一朝一夕に成るものではないです。
しかし災害に備え、復興の近道となるよう、
技術者の端くれとしてその一端を担いたいと、ずっと考えています。

令和6年能登半島地震の被災地は、その後令和6年奥能登豪雨にも見舞われ、甚大な被害を受けました。
そして今なお、完全な復興には至っていない現実があります。
被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、いつか心から穏やかな日常が戻ってくることを願っております。
